毎日、たんたん。
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メリークリスマス
兄が独立し、母が亡くなり、叔母が施設に入り、年々自宅から人が居なくなってどんどん淋しくなって来たが、今年に至っては父まで居ないクリスマス。かと言って、入院中の人そっちのけで遊ぶ訳にもいかないし、事実退院に備えて調べや準備、大掃除も同時進行だから、それどこじゃないのが事実。ケーキを食べる気にもならないもんだ。

キリスト教系の幼稚園に通ってた頃、クリスマスは一大イベント。アドベントカレンダーめくって、4本の真っ赤なろうそくに灯を灯し、生誕劇をやって、賛美歌歌って、キレイなカードをもらって帰る。家では母が手作り料理とケンタッキーのスモークチキン、フルーツポンチ。
なんか懐かしいなぁ。
不景気だから、じゃなくて、やっぱりクリスマスは自宅で家族で過ごすもの。
あ、大晦日も正月も私は家族で、が基本だけどね。来年はいよいよそこに新人家族が加わります!減るより、増やしたいもんですね、家族は。
11:19 日々、雑感 comments(0)
合格!
 父の事ばかりの12月ですが、本日発表されました!手話検定の結果。

うっほほーい、2級、合格しましたよん!

今月に入ってから一度も講習会に行けてませんけど、でも、頑張りますよ、これからも。
22:48 日々、雑感 comments(3)
HからNへ。問題はQ。
木曜日に全ての管が取れた父。とてもスッキリした顔になり、こちらも一安心。
そして金曜日の夕方、看護師さんから一般病室に移りましたとの連絡があった。これからは呼吸と筋力のリハビリが始まるのだろう。しかしその夜、消灯時間も過ぎた頃、兄宅に父から電話があり、カサカサの声で義姉に「明日朝早くに兄と私に来て欲しい」と訴えたことから、騒ぎが始まった。
何を云いたいのか確認したくとも、病院は電話を引き継ぎはしてくれないし、しかもこんな夜、どうしたもんだ?兄と相談した結果、病状の変化ではなく心の問題だろう、ひとまず翌朝兄が病院に電話してみる、と云うことにして眠ることにした。
ところが早朝5時半に自宅の電話が鳴り、すわ何事?と出ると、なんと父本人。一般病室だから、自由に公衆電話からかけられるようになったんだ。どうしたん?と尋ねると、自分の今後について相談したいから、朝一番で来いと云う。面会時間は午後だよ、兄は忙しいよと云ってもなかなか納得しない。とにかく、午後一番で私が行くから、と云うと、父は憮然と電話を切った。何だか夢の話のような気もするが冷たい受話器を握りしめてるのは事実なわけで、とりあえず兄に内容をメールをしておく。そして夜が開けてから兄と相談し、とにかく午後揃って面会に行くことにした。
1時きっかり、スタッフステーションで病室を確認し訪問すると、父は1人でベッドに腰掛け、少し当惑した顔をしていた。
「お父さん、どうしたん?」
「昨日いきなり引っ越しさせられて、それがすごく乱暴だったんだ。何も説明もなく」「ここのところしっかり眠れなくて、頭がグルグルになった」
兄と想像していた通りだった。
ICUからHCUに変わった時、こちらも感じたが、看護師さんの対応が違ってきたのだ。当然、集中治療から高治療、そして一般なのだから、1人の看護師さんの診る患者の数も違うし、動く範囲も全く異なるだろう。だから当然、1人の患者に関われる時間や配慮が違ってくるのはわかるのだが、それが父のパニックを誘発したのだろう。父だって近日中一般病室に移ることはわかっていたのに、これほどパニックなのは、ほとんど説明なしに、荷物もガサガサ詰められての引っ越しだったのが明白だ。事実、私への連絡でも引っ越し先の病室番号が伝えられなかったのは私も気になっていた。

入院当初「この病院に運ばれて良かった」と云っていたのが、このような感想に変わってしまったのは非常に残念だ。

ひとしきり3人で話したり、お茶を飲んだりしていたら、だいぶ落ち着き、逆に体が疲れた様子。まだまだ体力が半分も戻ってない。転院したい、とまで云っているが、まだまだそんなタイミングじゃないのは明白。
難しいなぁ。どうしたらよいんだか…

20:16 からだのことだから comments(0)
坂の上の雲を1人で見る
病院から帰って、肉じゃがを作りながらNHKの「坂の上の雲」を見る。
3年連続、年末放送という壮大なプロジェクトで、昨年見終わった時に父が「3年後自分がどうなっているか、わかりゃしない」と云っていたが、まさにその通りだ。NHKの繰り返しの宣伝を見て、先月末「1年、早いなあ」なんて云っていたのに、今や病院の中。テレビも見て構わないらしいが、父自身光がチカチカすると動悸がする、といって見たがらない。

最初30分は、教育テレビの「ろうを生きる難聴を生きる」を見てしまったため、途中から見たのだけれど、今日は長く病床にあった正岡子規の最期の回だった。香川照之の演技もインパクトがあるが、その妹・律役の菅野美穂が素晴らしい。兄を思う力強い思い、それ以外のことには目もくれない看病生活。その中にはきれいごとだけではない思いもあるのが当然だけれど、それをも隠さず、しかし翌日にはそれをスルッと忘れたようにまた新たな気持ちで看病をする姿。それを見事に演じていた。その律さんが、子規の死後女子職業訓練学校の生徒となり、やっと自分のために生きる姿はとても美しかった。

うんうん、律さんのその姿を見習おう。
21:57 日々、雑感 comments(0)
IからHへ
手術から10日経ち、今日ICUからHCU(High care Unit)へ引っ越した。
24時間明るく、年中ピーコンピーコン音がする病室から、半個室の日差しの明るいところに変わったので、さぞやご機嫌かと思ったら、意外にもぶーっとしている。何が文句なんか?と尋ねると、「仲良くなったICUの看護士さんに会えなくなった」との事。あほ。

リハビリの担当の方も来て、HCU内を車椅子を歩行器代わりにテクテク歩く。ほんの少しなのに、それでも息が上がってしまうし、足もちょっとカクカクしてしまう。10日間寝ていただけで、こんなにも衰えるものか。本人はもっと動きたいと思っているらしいが、体は正直。心臓も肺も「まだ術後でーす」と訴えてくる。
ここで数日過ごした後、一般病棟へ移る予定。早いのか、遅いのか、よくわからないけれど。それでも、退院後の家での心配などについて、来週医療チームの皆さんが説明と相談をしてくれるらしい。

世の中「託児所の増加」が叫ばれているけれど、今、私が欲しいのは「託老所」だな。要介護の有無ではなく、1人家に置いておくことが心配な高齢者を夕方まで預かってくれる場所が、働く看護家族には欲しいと思うよ。

23:27 からだのことだから comments(0)
25%
 さて、12月7日からの続き。
救急車に運び込まれた父に続いて、私も乗り込んだ。「どこか、ここへ行きたいという病院はありますか?」と尋ねられ、とりあえず母もお世話になり、父も通院している小金井市のS病院の名前を挙げる。また、父は叔母が今のような歩けない状態になってしまったきっかけを作った隣市のT共済病院だけはやめてくれ!と云う。私も同感である。
さっそく、隊員の方が運転席のところにある画面を見ながら携帯電話で問い合わせをしてみたが、「S病院は当直医が整形外科だけということで、断られました」との回答。これから長い病院探しが始まった。まさに、これがニュースや新聞で聴いていた「門前払い」「たらい回し」って云うやつか、と知る。とにかく、病状、患者の説明を全部しなければならないから、延々隊員に喋らせた挙げ句、しばらく待たせて「やっぱりダメです」との答えばかり。

とこの辺りで、父が「あ、両足の感覚もなくなってきた」と言い出した。女性隊員が毛布を捲ると、真っ白に変色していた。足首の脈を取り、「こちらも脈が取れなくなってます」という。しかし、「曲げられる?」という問いに対して、曲げたり上げたりはできる。父の体で一体何が起きているというのか?素人の私には皆目検討がつかないが、とにかくどんどん病状は悪化していることは確実であって、思わず「まだ決まらないんですか?!」と声を上げてしまう。

府中市のT総合医療センターは新しいし、何よりこの地域の中心だからいいと思ったのに、ベッドがないという。立川のS医療センターもどうやらだめらしい。国立(こくりつ)で、バカみたいにでかい建物立てやがって、こういう時に何の役にも立たない病院なんかクソ喰らえだ!と猛烈腹が立ってくる。
そして、次に電話を掛けてくれたのはもう少し北にある、叔母も一度運ばれた事もあるH病院だった。叔母の時も夜、老健から救急外来に運び込まれ、それから夜中1時過ぎまで点滴、それが終わったら戻って下さいと云われ、タクシーで再び老健まで連れ帰り、我々はてくてく歩いて帰宅したのは2時過ぎだったという、非常に厳しい思い出である。善くも悪くもない印象だった。ただ、どちらかと云えば小規模、のんびりした印象があったので少し不安だった。
「はい。ええ、ありがとうございます。それでは向かいます」
電話を切った隊員が「H病院が受け入れ可能と云う事ですので、向かいます」とこちらに向かって云う。消防隊の方が交通整理をしてくれ、一路救急車はH市を目指す。父は手が痛いといい、握っていてほしいというので、冷たく白い右手を握りながら。そんな状態ながら、父の意識は普通だった。兄に電話を入れると、既にバイクで都心から小平までたどり着いていたおり「まだ、出発してなかったのか!」と怒りぎみだった。当然のことだ。

救急外来に運び込まれ、私は受付を済ます。
看護士さんに呼ばれ、ERに入ると父は既にベッドに移されていたが、足首は真っ白だ。医師から倒れた時の状況を訊かれる。倒れた時間、倒れる前の様子、倒れ方、飲ませた薬、手足の変化、すべてを伝える。と、医師は「とにかく、CTを撮ります。恐らくそれで、体内で何が起きているかがわかります。詰まったのか、解離している可能性もある」という。そのとき、私は「解離」の漢字も意味もわからなかったが、「とにかくお願いします」というほかない。
再び、待合室に戻ると兄も到着。バイクを飛ばしてきた兄は寒さでガタガタ震えていた。それがなんだか事の大きさを感じさせ、こちらまで震えが来てしまった。
その頃、同じく待合室にいたおばあちゃんが「どうされたのかしら?」と話しかけてきた。状況を説明すると「心配ねぇ。うちも娘が高熱で来たのよ。ガンだから、仕方ないのよ。ここの常連さんよ」という。うるさい!と思う気持ちもあったが、まだ病状の重大さに気付いていなかった私はそののんびりしたおばあちゃんの語らいがありがたかった。
CTを終えた父のベッドが戻ってきて、しばらくしてまた呼ばれた。父は兄の顔を見て、左手を上げ、少ししゃべる。

それから、さっきの医師が病状を説明してくれた。
父の断面図。何がなんだかわからない。しかし、医師が差し出したプリントには「急性大動脈解離」の文字。おっかない血管の図。そして「特にA型は死亡率の極めて高い病気です」の文字。
医師は淡々と、かつ妙に細かく説明を始める。
「いわゆる、昔「ポックリ病」なんて云われていたのは、恐らくこの病気のことでしょう」
「いつ、破裂してもおかしくない」
「手術中に死亡することも多い」
「一度心臓を止めて、人工心肺に繋ぎます」
「脳へのダメージを減らすため、体温を25℃まで下げます」
「右手、両足に血液が行っていないので、壊死の可能性も高い」
足がガクガクしてきて、前を向いていられない。背中を丸めて腿に顔を当てて話を聞く。兄が来たことで、安心して少し気が抜けてしまっていた。
話はまだまだ続く。手術の危険性、起こりうる可能性のある事態をすべて。この頃私は、「緊急性を要すると云っているんだから、さっさと手術してくれ!」と思っていたが、そんな気持ちを悟られたか、医師は「とにかく大量に出血するので、今この地域から血液を大量に集めています。必要量の血液が集まるまでは開始できませんし、麻酔の担当医も今こちらに向かっている状況なので、手術は1時過ぎから始めます。」と云われた。ああ、なんてことだ。

父はICUに運ばれ、私たちはとにかく大量の書類にサインをさせられる。
それらの書類を後日見ていたら、一番最後に「○×殿の手術危険率(手術死亡率)は約25%
と書いてあった。当日、私はそこを聴いていなかった。今考えてみて、1/4は死んでしまう手術だったのだな、と改めて寒気がする。
21:35 からだのことだから comments(0)
それはiPadではなく、アイマスクです
 父、本日やっと酸素の管を抜く事ができた。1週間、濃厚な酸素をむりやり肺に入れてもらっていたおかげで、呼吸が下手になってしまうらしく、酸素マスクを付けていてちょっとしゃべるだけで、息が切れてしまう状態。今は呼吸訓練をしながら、痰を積極的に出して肺炎予防。肺炎は今後、退院しても心配だよな。明日はできたら、水を飲んでみるらしい。

それでも、やっと喋れるようになり、ラジオが欲しい、メモと筆記用具が欲しい、それも落ちないように紐で繋いで来いだのいろいろリクエストが出てきた。好い傾向。
その上、両手で目を覆いながら「あと、これも欲しい、アイパッド」と云う。父、それはアイマスクだよ。ICUは24時間患者さんの容態を監視しているので、夜中も結構明るいらしい。それがまぶしくて眠れないようだ。病院の向いの薬局にはラジオもアイマスクもちゃーんとあったので届けてきた。
iPadについては息子の方にねだってね。私には無理でーす。
22:22 からだのことだから comments(0)
脈がとれない。
 家族の病気についてブログで公開するなんて、という声もあるかと思うけれど、母の乳がん、叔母の偽痛風、そして今回の事を経験してみて、やっぱり「知らないってことは不利益」だと感じているので、このブログを読んでくれている人たちの大切な家族を守る一助になればと想い、書いておこうと思う。何しろ、ここは私の(愚痴?)日記なわけだし。

父が倒れたのは夜の9時近くだった。
残業して、食料品の買い物をして帰宅したところ、父は無印のデニムエプロンをして鍋の準備をしていた。手を洗って、その準備を手伝おうとした時、ふらふらと居間の方に移動した父が「そこの置いてある薬、何錠飲めばいいって書いてある?」と言い出した。「何、どうしたん?」と尋ねると、胸のど真ん中をグッと掴んで「急にここが締め付けられるように、痛くなった」と言い出した。先日、気分が悪く通っている病院で不整脈と心室細動だと診断を受け、服薬で収まったばかりだったので、その発作かな?と思って、薬の入っている器の文字を見ていた時、「あ、あ、あ!」と云って、崩れるように父が倒れた。倒れそうになって椅子に捕まろうとしたのだろうけれど、それもできず、そのまま台所の床に倒れ込んだ。幸い、頭を打たなかったようだけれど、呂律が回っていないし、体が云う事をきかないようだ。「脳卒中か?」ビックリしながらも、それからの私は自分で云うのもおかしいが、妙に冷静だった。父の意識が飛ばないように「お父さん、聴こえる?救急車呼びます、いいですか?呼ぶよ!」と声を掛けると、父も「うんうん」と答えてきた。受話器を掴んで、119番を押す。センターの人に状況と住所を伝えた後、訓練で習った通り、体を動かさないようにしながらもとりあえず呼吸が楽になるように頭に枕を当てて、手が以上に冷たいので毛布をかけた。一瞬、意識が飛んでいた様子の父の頬を叩き、心臓マッサージをしようと胸に手を当てると、意識が戻ってきた様子で「薬を飲みたい」という。むせないように薬を飲ませるとと少し楽になったという。すると、救急隊員から電話が折り返し掛かってきて、状況を再確認してくれて、「今、向かっているので落ち着いてくださいね」と云ってくれた。料理中のガスをすべて止めて、テーブルを動かし、それから兄に電話をした。
と、その頃遠くからサイレンが聴こえてきた。我が家は道路から奥まっているので気付かないといけないと思って、表に飛び出す。が、やってきたのはなぜか消防車。私はちゃんと救急だと云ったのにと思って、隊員にそういうと、「救急車が少し遠くから来るので、それまで私たちが付き添います」という。ありがたい。
その頃、父は体を動かせないようだけれど、比較的落ち着いていてきちんとしゃべれる状態になっていた。消防隊員に話をしていた。そして「保険証とか、薬を用意して下さい」と指示をくれたので、私も落ち着いて財布や保険証、鍵なんかを袋に入れて準備しておくことができた。その内、救急隊の人男性2人と女性1人が到着、AEDなどを持って家に入ってきた。女性隊員が父の手を取って脈を取り、男性隊員がAEDを準備、もう1人が父に質問をし始めた。消防隊の人に「犬が噛み付きそうな勢いなので、どこか移動して下さい」というので、とりあえず綱を短くして大人しくするように声を掛けた。マックにしてみれば、こんなにいろんな人が来て、ビックリするのは当然だ。
すると、女性隊員が何度も場所を変えて脈を取ろうとしていたが、首を傾げながら「右手、脈が取れません、全くふれません」と云った。男性隊員が揃って「取れない?」と反応する。

ええっ?脈がふれない?

以前、タレントの森公美子さんが「うちの父は心筋梗塞で病院に運ばれた時、死ぬのを実況中継したんですよ。『ああ、足が冷たくなって行く、動かせない。あ、手もダメだ』っていう風に」と話していたのを思い出し、もしかすると、うちの父も死につつあるの?と思ってしまった。
しかし、左手では脈が取れて、しかもきちんとしゃべっている状態。何かが違う。とにかく、体をできるだけ動かさないようにして担架に乗せもらい、救急車内に運ばれる。消防隊の人が「戸締まり、火の元の確認をきちんとしてくださいね。大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
それから、病院探しが始まった。
10:27 からだのことだから comments(0)
すべてのタイミングに感謝してます
父が倒れたのが、私が帰宅して10分もしないタイミングだった。

初めてAEDの訓練と一緒に心臓マッサージや通報の練習をしたのが数ヶ月前のことだった。

父の通っている病院の当直が整形外科だけだったので、搬送を断られ、その後も2つほどの病院に断れた結果、運ばれた病院に心臓血管科の先生がいて下さったおかげで病名が早く判明し、早期に手術する事ができた。

いろんな偶然が良い方に転がって本当によかった。

もちろん、病気になったことを「悪運」と捉えることもできるけど、それはそれ。誰だってかかりうるものだし、それは仕方のないことだし。ネガティブに考えるよりもポジティブに。

父は、今日は意識もしっかりあるようす。なんだかしゃべりたいようだったけれど、がまんしてもらった。たぶん、なかなか通じなくてイライラするだろうから。腕はパンパンに浮腫んでいるけれど、いつおさまるんだろうな。
22:51 からだのことだから comments(2)
救急救命訓練はやっておくべし
少し落ち着いたので、書いておくことにします。

12月1日夜、父が倒れました。
救急車で運び、夜間の救急窓口で下された診断は「急性大動脈解離」。このまま放っておけば、24時間以内に死亡するという緊急を要する状態で、夜中の1時過ぎ手術開始。それから、翌日11時に途中経過報告。父親の心臓をテレビ画面で見せられるというショッキングな状態で、とりあえず人工血管の置換は無事終了したが、出血が止まるまで交代で止血しますとのこと。止血が終わり胸を閉じて、ICUに入ったのは夕方4時過ぎ。一山越えたので、一度帰宅して休んで下さいと云われる。兄と自宅に戻り、一日以上ほったらかしだった犬に餌をやる(今日わかったことだったが、たまたまお願いしていた庭掃除をして頂いた便利屋さんが柿を食べさせていてくれたらしい)。
翌朝、季節外れの台風のような雨の中、兄の車で病院に向かう。既に麻酔から覚めていた父は、管だらけだった。不本意だろう。3時間以上血流の停まっていた右手両足は壊死の恐れもあったが、とりあえず無事のよう。むくんではばったい状態でも、こちらの手を握ってくれた。ここがどこだか、どうしてこんな状態なのかも分かっている様子で意識障害もなさそう。
夕方もう一度訪問すると、無性に何かを云いたいらしいが、何しろ口には管が入っているのでわからない。文字盤をもらうけれど思うように指差せず、結局兄が読み取った結果は「頭が寒い」。アイスノンを外してもらう。

まだまだ、ICUでの治療が続きます。
今後どんな後遺症が出るのか、障害が残るかわかりません。

今回自分でも驚くほど落ち着いて、救急車を呼べて対応ができたのは、職場で馬鹿みたいに繰り返した救急救命訓練のおかげだと思う。体に覚えさせておくって、大事だと思った。馬鹿にしないで、皆さんもやっておいてください。何時必要になるかわかりませんから。
11:24 からだのことだから comments(3)
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