毎日、たんたん。
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被災地に手話バンダナを!


墨田区の手話サークルすみだが作成した「手話バンダナ」。

「私、耳が聞こえません」

「ボク、ちょっとは手話、わかります」

聴覚障害のある方、聴覚障害者をお手伝いできる人が一目瞭然なものです。
全国統一でないのが残念ですが、今もし在庫があれば、これを被災地の聴覚障害者(情報弱者)に配ってほしい。聴覚障害は気付かれにく障害です。ぜひ、自己主張と周りの理解と補助を。
13:11 日々、雑感 comments(0)
募金は計画的に
私みたいな根性無しが被災地に行ってボランティアができるわけもなく、その上自宅での問題も大きいので、今自分にできることとして積極的に募金をしている。
職場でジャワティの小さなボトルに貯めていた500円玉貯金を解禁し、ポケットにいくつか入れておき、街の中で募金活動(信頼のおけそうなやつね)を見かけると「頑張ってね」の気持ちを込めてポチンと入れている。それ以外にも自治会でも募金、職場で募金、駅前(職場の方々がいつも帰り時間に各課持ち回りで募金活動をしているので)で募金、ってやっている内に、結構使っちゃった。

復興がいつできるのか全く未定、元には戻らなくとも元のような生活が出来るまでは恐らく10年近くはかかるだろう。全世界的な援助はこの1年くらいの間だろう、その間に世界各国にだっていろんな事態が起きるであろうから。そう考えると、今すぐの募金とは別に、長期的な募金活動も絶対必要になると思う。
とりあえず、私は毎月11日に募金か貯金をして定期的にそれを送って行こうと思う。そのくらいできる。私の住む東京の電力を賄うために住む土地を失ってしまった人たちのために、これからできることをやって行く。

でもね、職場の上司たちが街頭募金に立った時のちょっと嬉しい話。

「びっくりするほど、若い人たちがたくさん募金してくれるんだよ。学生さんみたいな人が、『今、俺にできることはこれくらいなんで、よろしく』なんてボソッとつぶやいて、1万円札を入れてくれたんだ。」

がんばろうね、これからの日本を支える人たち。
11:58 日々、雑感 comments(2)
あったか「手」当て
 みんなが心配してくれていること、本当に嬉しく思っています。父にも伝えています。

今日は従姉が一緒に昼ごはんを食べてくれた。お店選びは私に任せてくれたので、三鷹のリトルスターレストランにした。初めての店でドキドキごはんよりも、ホッとできる味と気持ちいい接客が恋しくなって。それに水道水の事やら停電のある中でも、できるだけいつも通り頑張っているお店に行く事で応援するのも、客の大切な使命だからね。

今日の日替わりは「しそちりめんとんかつ」。普段トンカツなんてほとんど食べないけれど、今日は無性に食べたくなって思わずオーダー。一緒にカリフラワーのあちゃら漬けも一緒に。アツアツのとんかつ、しっかりした厚みがあるけどしその効果かとてもサッパリ頂けた。
いつも絶妙なタイミングで話しかけてくれるokayanさん。会計を済ませ、扉を開けて出て行く後ろ姿に「この後の今日もよい一日でありますように!」。なんとさりげない、そして最高の言葉だろう。本当にありがとう!やっぱりリトスタにしてよかった。

従姉と別れ、夕方の面会時間に父に会いに行く。事前に兄から状況を聴いていたので、予想通りといった感じ。うつらうつらしているようだけれど、今は苦痛がないのが一番。でも、帰ろうとしたら気配でわかったのか、ハイタッチ(と云っても、それほどハイじゃないけどね)をしてくれて、指相撲みたいに手を握ってくれた。大丈夫、大丈夫。

帰り道、自宅に寄らずにその足で国立のLET'EM INに向かう。
今日は「賑やかな週末」というイベントをやっており、その中でUssa-Beaute(ウッサボーテ)さんがチャリティーハンドマッサージをやっているのだ。15分のハンドマッサージのお支払い、1000円が全額日赤の募金となるのです。マッサージの先生小杉さんの行動力にびっくり、普通の募金もいいけどこちらもちょっと嬉しい募金はもっと嬉しいじゃん。
念入りなマッサージ、うっとり気分8割イタタ…(こっているため)気分2割。でも終わる時には全身ポッカポカになって、体中ががこわばっていた事にやっと気付いた。ACのCMじゃないけど、正に「手当」。手のぬくもりってこんなに人の気持ちを柔らかくしてくれるんだ。

マッサージ以外にもいろんなイベンターさんが店内アチコチにいて、帰りにはTAIYODOのマフィンを3種類ゲット。抹茶を頂いたけれど、重くなくてしっとりとほろり感がすごく好みで美味しかった。都内のあちこちでも「自粛」ムードで様々なイベントが中止になってしまい、出店予定だったTAIYODOさんとの話の中から、今回のイベントが決まったそうで、LET'EM INの店主原さんも粋なイベントをやるなぁ。
LET'M INって「中に入れてあげようよ」という呼びかけの言葉なんだって。今、最高の応援だね!


22:44 おでかけ日和 comments(0)
まだ頑張ります
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地震続きでドンドン前に出て来てますが、意外に頑張ってます。因みに空箱です。
12:32 日々、雑感 comments(0)
今、読んでほしい本
評価:
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合同出版
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(1989-06)
コメント:原発事故とはどういうものなのか、どのように対処すればよいのか、コンパクトにまとまった本。

 今回、原発についてあまりに自分が何も知らなかったことを痛感した。全国に55基もあること、かなり老朽化が進んでいること、冷却にこんなにも時間が掛かるほどの熱量があるというKとなど。

そんな中、今合同出版HPで著作権者の理解/協力の下、絶版になっている本がPDF版で公開されている。『緊急対策マニュアル 原発事故 その時あなたはどうするか?』という本。すごくコンパクトに事故そのもの、対策、よく耳にする単語の説明がなされている。ご近所の図書館で借りるのも一つ、プリントアウトして家族で読むのも一つ。ぜひ、この機会に読んでほしい。冷静な判断材料の一つになると思う。

そして、もう一冊。
『被曝治療83日間の記録 東海村臨海事故』
こちらは、今福島原発で作業している東電職員、そして関連会社(東電より多いのでは?)、消防隊員の方がこういう症状になる可能性が極めて高い環境で、正に命を懸けて戦っているということを知るために良い本。子どもの頃、広島長崎の原爆写真展が小学校の体育館で開かれ、母に連れられ数回観に行った。その時の恐怖をひさびさにこの本で感じた。たまたま返却されてきて、パッと開いてみたら皮膚がボロボロに剥がれた腕の写真。実は病院に運ばれた時はほとんど普通と変わりなかったのが、数日後には重度のヤケドをした状態になってしまったのだ。これが被曝なのか、と知る。そして体内でもDNAの染色体が形を失い、皮膚組織の再生が一切できなくなる状態。そして、治療に当たった医療関係者も彼らから発せられる放射線で軽度の被曝をした事実。
目を背けたくなるが、背けてはいけないと思う。今回、東電職員のずさんな管理体制で、関連会社の作業員3名が回避できたはずの被曝をしてしまったという。ここまでひどい症状が出ない事を祈るが、東海村の時もそうだったが、こういう時情報がなかなか出てこない。こうして本で出ても、見る人は限られる(NHKでドキュメンタリーをやったらしいが)。もっと今、一番国民が感心を寄せている今だからこそ、事実を伝えてほしい。百聞は一見にしかず。個人情報を守りつつ、写真での紹介が必要だ。



09:26 本やら、雑誌を読んで comments(0)
すいか、お預け
今週は仕事に復帰した。
年度末でまとめることや、報告すること、新年度に向けての企画などやることは山とある。ニュースどっぷり生活とICU通いの毎日から、仕事の山片付けにシフトできて正直ほっとした。人事異動も発表され、新しい風(好いか悪いかは不明だけど)も吹きそうだが、反面やっと改善に向けて動き始めた流れを先導していた方が移ってしまいショックが大きい。挫けそうだ。役所のこのやり方は、絶対進化の足を引っ張ってると思う。

体も気持ちもくたびれており、ドラマ「すいか」の続きを見たいんだけど、数分で夢の世界に入眠してしまい、もったいないからお預け。眠ライフを満喫しよう。
00:00 日々、雑感 comments(0)
急変
 地震、原発、輪番停電、買い占め狂想曲。

いろんなストレスの中、それでも父の病状が好転してきていたので少しだけ安堵していた先週末。木曜日、停電中父を見舞っていた兄から「今日、腹部に少しだけ出血があるっていうのがわかったらしいんだけど、1ヶ月もすると体内に吸収されるから大丈夫だって」という電話があった。仕事の帰りに私も見舞いに寄ると、ちょっと痛みはあるけどと云いながらも「早く携帯を買ってね、つまらないから」といって、興味深そうに原発のニュースに見入っていた。

そして、金曜日。
今日も交通機関がどうなるか検討がつかないので、いつもより30分くらいは早く家を出ようとした6時半。突然自宅の電話が鳴った。意外に「ああ、病院からだな」と冷静に出たのは、そろそろ術後1週間が経ち、寝ているだけなのに飽き飽きしてきた父が「今日はこれを持ってきて」とかいうおねだりの電話だろう、と思ったからだ。しかし、電話口の声は女性だった。
「あ、○×病院3階の看護士◆ですが、お父様の容態が急変したのでICUに移動し、今人工呼吸器をつけた状態です。今すぐ病院に来て下さい!」

ふへ?急変?

それから、落ち着いているのか焦っているのか、兄に電話をし、なぜか通帳などを持ち、家を飛び出し、ふと犬にエサをやっていないことに気づき、前回のように絶食になってしまうと大変!と慌ててエサをやってから自転車に飛び乗る。
ICUについて、インターフォンを鳴らすと「とりあえず控え室にいて下さい、先生から説明があります」と云われ、脇の控え室でひたすら待つ。ICUの自動ドアがなんども開け閉めする音、そしてパタパタと走る人の足音を耳にしながら、じっと座って待つ。40分くらいして、兄が来る。50分くらいして、主治医がやってきたが、控え室のパソコンが立ち上がっていないため、ICUの中に入れてもらう。父の周りには6人くらいの医師やら看護士が走り回り、いろんな機械がピーピー鳴っている。目に入ってきた数字、血圧50。上の血圧が50なのだ。もちろん意識はない。
主治医の説明では腹部に大動脈からの大量の出血があり、意識がない。輸血と医師の手配が出来次第「救命」手術を始める、とのこと。「救命」、そんな状態なのだ。
3ヶ月の間に3回の手術、しかも前回は1週間前の事。78歳の体がどれだけ保つのだろうか?いったい何時くらい、そういった状態だったのか?
最初の入院の時、黒い白衣の苦手な医師も、私服の上に白衣を羽織った状態で必死に処置をしてくれ、センター長も深刻な表情で入ってきた。
3回目の手術同意書、輸血同意書へのサイン。
手術室に運ばれる前にやっと父の近くに呼んでもらえた。そんな深刻な状況の割に案外穏やかな表情で、少し安堵。

何時間かかるかわからないとのことで、再び家族控え室にて待機。
現実逃避的に、エビのように丸まって横になりうつらうつらと時間を過ごす。昼過ぎ、輪番停電。こんな中でも手術は行ってくれているのだ。感謝。

2時過ぎ、手術終了の電話。
ICUに飛んで行くと、さまざまな機械に繋がれた父。
とりあえず出血部分を止血、大動脈の人工血管を再建し終わった。しかし、しばらくの間腹部内多くの血の固まりあり、内臓を圧迫していたのでそちらへの影響、そして全身の酸素の欠乏などの影響が出るかもしれない、とのこと。この先生には本当に3度も命を救ってもらった。助かった安心よりも後遺症への恐怖のせいか、嗚咽が止まらない。

停電が終わったばかりのファミレスで兄と食事を取る。
営業中と云いながらもほとんどのメニューが提供できないって、ちょっと笑ってしまう状況。厨房が戻るまでコーヒーをもらって過ごす。復旧後、きちんとご飯。食べなきゃ、こっちがダウンしてしまう。何しろ、昨年末以降、かなり体重が落ちてしまった。

夕刻面会に行くと、明日まで目を覚まさないかも、と言われていたが、少し麻酔から覚醒している様子。ただし、腎臓、肝臓、肺へのダメージはこれから判明していくとのこと。とりあえず自宅で待機していください、と言われ帰宅。

翌朝から、1日三回の面会時間に病院通いの日々。ありがたいことに3連休は停電がなくて幸い。意識は戻り、「痛い」などの訴えはしてくれる。それ以外にダメージはありそうだが、素人では判断できない。休み明けリハビリの担当者や主治医の判断を待ちたい。

昨日はそんな状況を知った友だちが「今から国立に行くけど、ちょっとだけ会える時間はある?」とメールをくれ、わざわざ電車を3本も乗り換えやってきてくれた。そして、「ちゃんと食事しなきゃだめだよ!」と云って昼食を一緒にとってくれ、しかも買えなくて困っていた牛乳と玉子をプレゼントしてくれた。こちらの不安と忙しさの中、負担にならないフォロー。とても嬉しい。心強い友だち。

まだまだ落ち着かない日々。
でも、明日からは仕事にも復帰する。来年度の計画を始めなくてはならない。
今日は早く寝よう。

21:41 からだのことだから comments(0)
祝!九州、がんばれ!東北。



東北関東大震災のためにお蔵入りしてしまったという、素敵なCM。これは自粛しなくて良いんじゃないかしらん?

こんな笑顔が東北(茨城もね)にも早く戻りますように。

それにしても、うちの近所の買い占め行動、ちょっと酷すぎる。牛乳、玉子一切なし。父の面会(まだ、日記にしていないが、昨日3回目の緊急手術を受けたばかり)に行くのにも、明日のような雨の時は兄の車が頼りなのにガソリンがない。

私は日常を送りたいだけ。朝ご飯に牛乳を1杯、目玉焼きを1枚食べたいだけ。父がパニックにならないように、できるだけ多く面会に行きたいだけ。

ここは被災地じゃない。どうしてこんなことになっているのか?どこかに逃げるためですか?

しかし、今日のニュースで牛乳の放射能被害が報じられたから、今度は余るようになってしまうんじゃないかと思う。早く原発の事故が終息を迎え、国が嘘偽りなく安全宣言を出してほしい。

追記:自分もちょっと興奮状態なのだと、読み返して思った。日常を送れなくなっている人が数十万人いるのに、自分だけ日常を送りたいなんて、ずいぶん自分勝手な、と。すみません。日本社会全体のパニックと、自分の身辺数メートル半径の中のパニックの処理が追いついていないのだと思います。でも、とにかくすべての人に早く日常が戻るように祈りたいです。そのためにも、家族全員で牛乳やら、ティッシュやらを買い占めるような行為こそ自粛を。買い占めても、週明け停電が始まれば冷蔵庫も止まって、食品が傷むことがあるかもしれません。今日の食材は今日手に入れる、この方が理にかなっていると思うんですけど…。
00:03 日々、雑感 comments(0)
平成23年3月10日〜13日(とてつもなく長い)
 3月10日(木)9:00〜
父の再手術(腹部B型動脈解離の人工血管置換手術)開始。
DIC(播種性血管内凝固症候群)の治療として、手術に踏み切る。

同日 15:30頃
手術終了。血小板不足のため出血多量の心配があったが、輸血などのおかげでとりあえず通常の倍近くの6〜7時間かかったが、手術を終えることができた。

同日 18:00頃
麻酔から覚醒。「無事終わったよ」と云うと、「うんうん、お腹が痛い」と答える。

数日前から見ているドラマ「すいか」のDVDを見ながら就寝。

3月11日(金)8:00〜
面会。まだ浮腫もあるけれど、こちらの質問に答えることもできるし、痛いということも訴える。手術が成功したら欲しいといっていたキーボード式の携帯電話を買おうね、というと、手をピコピコキーボードを動かすような仕草をする。

同日 14:30頃
前日の手術を待っている間の疲れなどから、朝食兼昼食を取り終わりうたた寝をしたり、パソコンをいじっていると、何やら床がユラユラと揺れ、ガラスの引き戸がカタカタと鳴り出す。「地震?」と思って、窓を開けるがどんどん、どんどん揺れが大きくなり出し、急いで下駄をつっかけて庭に飛び出す。庭の梅の木にしがみつくが、地面と木の揺れがまったく違う動きを成し、電線がたわんだり、引っ張られたり、ビシンビシン動くのが見える。裏腹にキレイな青空。まだまだ揺れは大きくなりながら続く。マック(犬)も無闇に走り回り、しっぽを巻き込んでいる。
近所の奥さんたち2人も家を飛び出し、「怖い怖い!」と云いながら寄り添いながら揺れが収まるのを待つ。すごく長い。
揺れが収まってから、ふいに病院に思いを向けると、体中に管を繋ぎ酸素マスクをした状態だったので、どうなっているのかものすごい不安に襲われ、涙が溢れる。近所の方々が、
病院は絶対安全、大丈夫よ」となぐさめてくれる。
家に入ると、天井からぶら下げていた蛍光灯がフックごと引っこ抜けていて、母の遺影が落下、ガラスにヒビが入り、鍋とザルが棚から落ちていた。
再び揺れ。庭に出て、再び近所の人と声を掛け合いながら、不安を押しとどめる。お隣さんは消防隊員なので、急遽自転車で消防署まで飛んで行く。

同日 15:15頃
とりあえず病院に行こう、とカタカタと余震の続く中身支度をしていると電話の音。
「あ、もしもし○×病院ICUの看護士△□です。お預かりしているご家族◆○さまは無事です。また、ICU内も何も問題ありませんのでご連絡します」
ああ、よかった!
「今から向かおうと思っていたのですが」と私が言うと、「道路状況もまだわかりませんし、まだ余震もありますので無理に動かない方がいいかもしれません。こちらは大丈夫ですので、ご心配でしょうけど落ち着いてから、夕方にいらした方がいいかもしれません。いらっしゃる時はお気をつけて」との返事。なんと的確な!すごくほっとする。

同日 16:00〜
都心で働いている兄に連絡を取ろうとするも、電話が通じない。仕方なく、出産のため神戸にいる義姉に電話をすると何回かコールの後、繋がる。義姉は地震のことを知らないらしく、「え?」と至って、のんびり。こちらとの距離を改めて感じる。事情を説明し、兄から電話があったらこちらは無事と伝える。実施、兄との直接の電話は繋がらず、神戸経由でお互いの安全を確認した。近くの老健にいる伯母からも電話があり。「こっちはしっかりした建物だから大丈夫よ」よかった。今、あの車椅子生活の伯母を避難させるのは私1人ではむりだった。
それから、秋田にいる知り合いの安否が知りたくて、電話をかけ続ける。何時頃だっただろう、無事電話が通じて、停電はしているものの家族全員の無事を確認。その後、宮城にご両親のいる知り合いに連絡するも、まったく電話が通じない。電話は無理と知り、とにかくメールだけ送っておく。
それから、しばらくはツイッターとにらめっこ。ツイッターは一度も落ちず。こんな時にその威力を知る。結局土曜日まで、面会以外の時間はパソコンでテレビを見ながら、ツイッターで情報収集をしまくって、1人パニック状態だったと言える。情報過多で、無闇とリツイートとしてしまったことを今反省している。

テレビから流れ来る津波の映像に、足下が震えてくる。津波は「高さ」が怖いと思っていたが、今回わかったのは「速度」だと知る。枯れた田んぼの間の狭い農道を必死に逃げる車。津波に飲み込まれる車。運命が一瞬で決まる。あの車には人が乗っているのだ。誰かの家族が。
職場の人たちに連絡すると、予想外にのんびりした声で拍子抜け。書架の本は落ちてこなかったのか?と尋ねると、あまりにぎっちぎちに詰まっているので落ちても来なかった、との事。笑い話か?しかし、余震もあるので、15:00に閉館したとの事。明日以降のことなど、一切決まっていないと聴き、勤め先の役所の危機管理能力、指示能力が如何に低いかを知る。自分の身は自分で守ろう。結局帰宅できなかった人が2人いたらしい。


同日 18:30頃
病院に行く。「地震、すごかったね」と声を掛けると、「うん、でもそんなに怖くなかった」と答えた。よかった。ICUの看護士さんにお礼を言う。
その日、夕ごはんを食べたのか、お風呂に入ったのか、今何も覚えていない。気仙沼の火災の映像に恐怖を感じる。たびたび鳴る携帯の地震情報の警告音に震えつつ、洋服のままうつらうつらと眠る。

3月12日
病院に行ったりして過ごしているはずなのだが、ほとんど記憶がない。
確か夕方兄の車で移動中原発の事故が発生し、その情報を知らないまま犬を散歩をしていて、帰宅後ニュースを見て、びっくり。「東京では影響ないんだろうか?」と不安になったんだと思う。

3月13日
いつもよりも1時間近く早く家を出て出勤。判断能力のない我が上司、停電も起こるかもと言われているのに、休館や閉館時間の変更などの決定ができない。情けない。朝、面会に行った兄から電話があり、尋ねてみると血小板があまり増えていない状況、そして父が術後せん妄になっていることを聴く。兄の事がわかっているのかわからないのかの状態らしい。うわ言のように「宗教団体が…!」などとつぶやくらしい。前回はなかったから大丈夫かと思っていたが、今回は恐らく地震の恐怖などと相まって起きたのだろうと思う。
夕方終業後、兄と面会に行く。主治医から説明あり、血小板が思うように上がらないが一週間はわからないから見守るしかない、との事。また術前からの精神状態がギリギリで、更に今もその状態のままだから、「今お父さんは精神的に限界なんだと思うので、病状説明はしないように」と言われる。後で、本人から聞いたところによると、この日の朝、腕やら鼻の管を全部引っこ抜いたらしい。「どうして俺はこんなところにいるんだ!(ICUは事務機器がいっぱいあるので、自分が病室ではなく事務室に押し込まれていると思ったらしい)」と看護士さんたちに当たったらしい。すみません。しかし、私と兄の顔を見たら、少し落ち着いたようで、病院で今どうしてこういう状態か少し理解した模様。

兄とバーミヤンでごはん。





11:19 日々、雑感 comments(0)
元気にやってます!
10日以降、自分の身の回りでも心配事があり、そしてあの地震。
とても、長い長い一週間だったけれど、とりあえず元気にやってます。父も病院でしっかり守ってもらっています。
仕事も普段より30分くらい早く家を出るくらいで、なんとか出勤できてます。

今晩は初めての輪番停電(あえて、計画ではなく、輪番と云いたい)を体験。しかも夜の6時過ぎから9時前くらいまで。地元の駅を出ると目の前にはまっくらな町並み。でも、月がとても明るく、そして警察官、地元の消防団の方、自治会の方々が道路整理をしていて、不思議と暖かみのある暗さだった。
自宅では懐中電灯とガスストーブで過ごし、途中から布団に潜り込んでいた。友だちや知り合いも心配して電話をくれたり、ツイッターで言葉を送ってくれたり。通電後、心配していたネット回線も無事復旧し、数時間の停電なんてどってことない。東北で寒く、暗い中で、そして原発事故の不安と戦っている人々に思いを馳せながら、静かにそっと祈り過ごした。

10日からのことについては、またゆっくり書こうと思う。
00:46 日々、雑感 comments(0)
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